Share

3-4 航の思い 2

last update Last Updated: 2025-05-08 11:46:28

 電話を切った航は項垂れてスマホを強く握りしめた。

「あ……朱莉……。ごめん……」

その上にポタポタと涙がこぼれて落ちてゆく。

今までこんなに誰かを好きになったことは無かった。過去に何回か交際したことはあったが、誰とも長続きはしなかった。

なのに朱莉にだけは強く惹かれた。

背負っているものが重過ぎて、年上なのに何所か守ってやらなければと思わせる儚さ。

朱莉本人は全く自覚していないようだが、美しい容姿……優しい心……そのどれもが航の心を鷲掴みにしてしまっていたのだ。

出来ることなら自分の思いを告げたかったが、朱莉はあの鳴海翔の人妻だ。例えそれが嘘にまみれた偽装結婚でも、書類上はれっきとした婚姻関係を結んでいる。

不倫の代償は……大きい。

おまけに朱莉は契約書に決して浮気をしてはいけないとサインまでさせられているのだ。朱莉にその気が無くても自分が周りをうろついていた為に第三者に付け込まれてしまった。

「俺も琢磨も……朱莉のことを遠くから見守っていれば……別れを告げずに済んだのか……?」

航は自問自答した。

「朱莉……お前が俺のこと、弟としか見ていなくても……お前のことが大好きだったよ……」

航はいつまでも泣き続けるのだった——

****

 電話が切れた後も、朱莉は暫くの間呆然としていた。

(航君……さよならって言ってたけど……もう二度と連絡を取り合わないってことなの? それに九条さんがオハイオ州に行くなんて……)

何もかも初めて聞かされたことなので、とてもではないが朱莉はすぐに受け入れられずにいた。

「フエエエエ……」

その時、蓮がむずかった。その声に朱莉は我に返り、慌ててベビーベッドへ向かうと蓮を抱き上げた。

「よしよし……レンちゃん。どうしたの?」

蓮を胸に抱きしめ、あやしながらだんだん朱莉は冷静さを取り戻してきた。

(航君、彼女が出来たんだ。航君はいい子だから彼女が出来ても当然だよね。少し寂しいけど、応援してあげなくちゃ。その為には私は邪魔しちゃいけないものね。それに九条さんがオハイオ州に行くなんて……。最後にお礼を言いたかったけど航君に連絡をしないように言われたから諦めなくちゃ)

朱莉にあやされているうちに、いつの間にか蓮は眠りに就いていた。その姿を見ながら朱莉は思った。

(そうよ、私にはまだレンちゃんがいる。それに、もともと私は1人きりだったんだから。それが
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-5 翔と姫宮 1

     翔は社長室のデスクでため息をついていた。そこへ秘書である姫宮がノックをして入室して来た。「おはようございます、翔さん。……どうしたのですか? 朝からため息をつかれて」「いや……少し蓮のことで……あ、すまなかった。プライベートなことなのに」「いえ、蓮君がどうされたのですか?」「実は……朱莉さんから週末、蓮のお宮参りに行かないか誘われたんだ」「まあ、それは素晴らしいですね。お祝い事の行事は大事ですから」「だから、明日香を誘ったんだ。2人でお宮参りに行かないかって」「え?」「だが……明日香は行かないと断ったんだ……」翔は頭を押さえた。姫宮は黙って聞いている。「だから朱莉さんに言ったんだ。悪いけど1人でお宮参りに行ってくれって。写真は頼んだんだが……。明日香の機嫌がどうにも良くなってくれなくて……」そして再び翔は溜息をついた。「そうでしたか……」姫宮は静かに答えた。すると、突然翔が立ち上った。「翔さん? どちらへ行かれるのですか?」「あ……いや、まだ始業時間まで時間があるからコーヒーを買ってくる」「コーヒーならコーヒーサーバーがありますよ? おいれしましょうか?」「いや。いいんだ。少し外の空気も吸ってきたいから」翔は上着をひっかけた。「はい、分かりました。行ってらっしゃいませ」姫宮は頭下げた。やがてドアが閉じられると姫宮はスマホを取り出し、メッセージを打ちこみ始めた……。**** 昼休憩の後。突然、翔のPCから呼び出し音が鳴った。「え……? ビデオ通話……会長だ!」翔は慌てながら応答した。すると画面上に会長である鳴海猛が映し出された。『やあ、久しぶりだな。翔』「はい、お久しぶりです。会長……突然どうされたのですか?」『いや、どうされたも無いだろう? お前がいつまでたっても曾孫の蓮の画像を送ってくれないからお前に電話を入れたんじゃないか。それに蓮は生れて一カ月が経過しただろう。お宮参りの行事があるんじゃないのか?』翔はドキリとした。まさか猛から蓮のお宮参りの話が出てくるとは思ってもいなかった。「そ、そうですね。そのことは考えてはいたのですが……」翔が言い淀む。『それでな、翔。今、私は上海支社にいるんだが、明日の朝一番の便で帰国することにした。お前の子供に会わせてくれ。それで朱莉さんを連れて一緒に土曜日にお

    Last Updated : 2025-05-08
  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-6 翔と姫宮 2

    ビデオ通話を切った後、翔は椅子の背もたれに寄りかかるとフウッと息を吐いた。その様子を離れたデスクで見守っていた姫宮が声をかけてきた。「会長からお電話だったんですね」「ああ、そうなんだ。だけど……あまりにも偶然と言うか……」「会長は日本の伝統的行事を重んじる方ですよ。私が秘書をしていた時から翔さんにお子さんが生まれたら伝統行事に参加したいと常日頃から仰っておられましたから」「……そうなんだが……。朱莉さんを明日鳴海家に連れて来るように言われてしまった。……色々とまずいな」「まずいと仰いますと?」「朱莉さんに妊娠中のこととか、出産のことについて根掘り葉掘り聞かれても朱莉さんは何一つ答えられない。きっと会長に疑われてしまう」「……会長に疑われるよりも前に朱莉様が心配にはなりませんか?」姫宮の言葉に翔は顔を上げた。「え?」姫宮は頭を下げた。「差し出がましい事を申し上げますが、会長と会われて一番困ることになるのは朱莉様だと思います。初めて鳴海家へ行くわけですし。恐らく翔さんとの結婚生活について会長が尋ねられるのは朱莉様の方だと思います。出産時の苦労話とか、それらを未経験の朱莉様に答えられるとお思いでしょうか?」「確かに……。どうしよう、必ず連れて行くと答えてしまったが、朱莉さんには急に具合が悪くなったとか理由を付けて、蓮だけ連れて行けないだろうか? 恐らく会長のお目当ては蓮だと思うし」「……僭越ながらそれでは根本的解決にはならないと思いますが? 蓮君はゆくゆくはこの鳴海グループの跡継ぎとなられるお子さんです。恐らく今後も会長は蓮君の行事の祝い事には予定を開けて参加されることになると思います。その度に朱莉さんを会長から遠ざける等、難しいと思います」「困ったな……八方塞がりだ……」片手で頭を支えながらため息をつく翔。「もしよろしければ私も明日、鳴海家へ伺ってもよろしいでしょうか?」「え? 姫宮さんが……?」「はい。会長の質問で朱莉さんが困るような場面があった場合、私が会長の気を引きますので。私は会長の秘書をしておりましたので、お2人の力になれると思います」そして姫宮はにっこりと微笑んだ——****――14時 蓮の沐浴を終えて、ミルクを飲ませている所に突然インターホンが鳴った。「え? 誰かな……?」朱莉は哺乳瓶をテーブルに置くと、

    Last Updated : 2025-05-08
  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-7 朱莉への疑惑 1

    「どうかしたんですか? 明日香さん」「え、ええ……。今までのこと、ちゃんと謝りたかったの。朱莉さんには酷いことばかりしてきたから」「でも明日香さんは私に親切にしてくれましたよ? 沖縄から東京に来るとき、わざわざビジネスクラスの航空券を手配してくれたじゃないですか」「あ、あれは……」明日香は顔を赤くすると、一度そこで言葉を切って俯き、再び顔を上げた。「お宮参りのことだけど、まさか翔が朱莉さんに一人で行って来いなんて酷いことを言うとは思わなかったの。翔の代わりに謝らせて。本当にごめんなさい」まさか明日香が謝ってくるとは思わず、朱莉は驚いた。「明日香さん、どうか顔を上げて下さい。それよりお聞きしたいことがあるのですけど……ひょっとして何処かへ出掛けるんですか?」「そうなの。実は今度『星の降る駅』っていう小説のイラストを描くことになったんだけど、星がきれいに見える駅がどこかにないか、SNSで質問していたのよ。そしたら昨日突然書き込みが上がったのよ。『野辺山駅』がとても星空が綺麗に見えるんですって。だから今日から早速行ってみようと思って」「すごいですね……それっていわゆる取材ってものですよね。明日香さん、恰好いいですね。憧れます」朱莉は尊敬のまなざしで明日香を見た。「そ、そう? あ……ありがとう」明日香は頬を染めた。「あの……でもその話、翔さんはご存じなんですか?」「翔には話してないわ。言えば反対されそうだし。その代り書置きだけはしておいたけど。スマホに連絡入れるつもりもないし。それじゃ……私そろそろ行くわ」そして明日香は立ち上がった。玄関まで朱莉は蓮を抱いたまま見送りに出た。「明日香さん。お気をつけて行って来てください」「ええ。それじゃ朱莉さん。行ってくるわ。お土産……何か買ってくるわね」再び明日香は頬を染めた。「はい。ありがとうございます」そして明日香は玄関まで見送られながら、朱莉の自宅を後にした——****——その夜自宅へ帰って来た翔は驚いた。いつもなら電気がついて明るい部屋が今夜は真っ暗である。「明日香? 出かけてるのか?」ネクタイを緩めながら部屋の電気をつけると、リビングのテーブルに残されている手書きのメモを見つけた。「なんだ? これは……書置き?」拾い上げ、目を見開いた。『イラストの取材で良い場所の情報を

    Last Updated : 2025-05-09
  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-8 朱莉への疑惑 2

     朱莉は英会話の勉強をしていた。——ピンポーンその時、玄関のインターホンが鳴り響いた。「え? ひょっとして翔先輩?」朱莉は玄関へ行き、ドアアイを覗きこむと思っていた通り、翔の姿があった。だが……何か様子がおかしい。鍵を開けてドアを開けると、そこには険しい顔つきの翔が何も言わずに靴を脱ぐと上がり込んできた。「こんばんは、翔さん」朱莉は挨拶をしたが、翔はチラリと朱莉を一瞥しただけで前を素通りし、リビングのソファに座ると低い声で朱莉を呼んだ。「朱莉さん……来てくれ。大事な話があるんだ」「は、はい……?」朱莉は言われた通り翔の向かいのソファに座ると、いきなり翔は切り出してきた。「朱莉さん……やり方が汚いと思わないのか?」「え? 何のことですか?」朱莉は訳が分からず首を傾げた。「とぼけるのはやめてくれないか? そんなに俺が蓮のお宮参りを1人で行くように言ったのが気に入らなかったのか?」翔は苛立ちを隠す素振りも無く朱莉を睨み付けるように言う。しかし、一方の朱莉には今の状況が分からなかった。「あ、あの……私には何のことかさっぱり分からないのですけど……?」身を縮こませながら尋ねる朱莉は激しく動揺していた。(分からない……何故翔先輩はこれ程迄に私に対して怒っているの……?)すると翔はますます機嫌が悪くなっていく。「何だ? 君が蒔いた種なのに説明が必要なのか? ……全く嫌みな態度だな。朱莉さん、君が祖父にお宮参りのことで連絡を入れたんだろう? それで祖父が中国から明日帰国することになったんだぞ? どうするんだ? 一時の感情に任せて祖父を日本へ呼び出せば不利な立場になるのは朱莉さん、君の方なんだぞ? そのあたりのことは理解出来ているんだろうね? 祖父から色々質問をされて、一つでもきちんと答えられるのか?」「え? 会長が……日本へ戻って来るのですか?」朱莉は驚いて尋ねた。「朱莉さん。君は随分演技がうまいんだな? 自分から祖父に連絡を入れたくせに……」翔は溜息をついた。「そ、そんな! 私は何も知りません。会長が日本に来るなんて今初めて聞きました。それに……第一私は会長の連絡先を知らないんですよ?」朱莉は必死で訴えた。「君の話を信じろと言うのか?」「そうです、お願いですから信じて下さい」「……悪いが、今回の件は流石に信用するのは無理

    Last Updated : 2025-05-09
  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-9 微細な変化 1

    「くそっ!」 翔は玄関に入ると乱暴にドアを閉めた。靴を脱いで部屋にあがると明日香のメモを見直す。翔は無言でそのメモを握りつぶすと、自室へと向かった。翔の自室には両サイドに大きな引き出しが付いた書斎用デスクが置かれている。そのデスクの間にしゃがむと引き出しを開けた。その引き出しには実はからくりがあり、さらに手のひらサイズの隠し引き出し機能が備わっているのだ。翔はそれを開けた。中には鍵が入っている。この鍵は書斎に置かれている本棚の引き出しの鍵である。引き出しの鍵を開けると、中にはひもでくくられた手紙と写真てが裏表反対に入れられていた。「……」翔は震える手でフレームを手に取り、表に返した。その写真には2人の人物が映っており、その写真を食い入るように暫く眺めていた。「あれから10年か……」翔は写真を見ながらポツリと呟いた。(何故だ……? もうずっと気にも留めず忘れかけていたのに、何故今頃になって思い出すんだ……? やはり明日香が10年間の記憶を一時的に失った時に、お前のことが頭をよぎったのかもしれないな……)こうして写真を見ていると、2人だけで写真を撮った10年前の、あの日の会話が思い出される。****『翔は優秀だけど、もう少し他者を労わってあげた方がいいよ。そうしないと、いずれ皆が去って行ってしまうかもしれないよ? 僕は翔が心配なんだ……』『何馬鹿なことを言ってるんだ。少しでも俺が相手の人間より立場が上なら、そんなことは絶対におこるはずないだろう? 俺は今も、この先も自分の考えを改めるつもりはないからな。大体お前にとやかく言われる筋合いは無い』****「そう答えた時、あいつはどこか悲し気な瞳で俺を見ていたな……」ポツリと呟く翔。あの時は何て馬鹿なことを言うのだと鼻で笑ってしまったが……。(お前の言葉の通りになったよ……。琢磨は俺と縁を切ってしまったし、明日香も俺の元をじきに去ろうとしているかもしれない……)思えば親友であった琢磨を自分の専属秘書にしたのも、その考えがあったからかもしれない。その時、翔は先ほどの朱莉の涙を浮かべた姿を思い出した。途端に罪悪感に襲われる。(朱莉さんにかなり乱暴に言い過ぎてしまった……)翔は祖父や明日香が絡むとどうしても冷静でいられなくなるのは自分でも良く分かっていた。それは自分の今のポジションを失い

    Last Updated : 2025-05-09
  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-10 微細な変化 2

    ——翌朝 翔は憂鬱な気分で社長室にいた。「おはようございます、翔さん。コーヒーをお持ちしました」秘書の姫宮がコーヒーを翔のデスクに置いた。「ああ、ありがとう……」翔は溜息をついた。「どうかされましたか?」「……いや、昨夜少し朱莉さんにきつく当たってしまって、反省しているんだよ」「朱莉様にですか?」「ああ。お宮参りの件で彼女を疑ってしまったんだ。ひょっとすると俺が最初に朱莉さんにお宮参りには1人で行くようにと言ったから、それに不満を持って会長に連絡を入れたんじゃないかって。馬鹿だよな。朱莉さんが会長の連絡先を知るはずは無いのに。それで今朝謝ろうとメッセージを打とうと思ったんだけど、何と書いたら良いか分からなくてね」「……」姫宮は何を思ってるのか、少しだけ眉を潜めながら話を聞いていたが……やがて口を開いた。「何かお詫びにプレゼントでも差し上げたらいかがでしょうか?」「プレゼント?」「はい、朱莉さんが好みそうなプレゼントです」「……」翔は考え込んでしまった。朱莉のプロフィールなど、殆ど把握していない。知っているのは学歴、勤務履歴、家族構成のみだった。「駄目だ……。俺は朱莉さんのことを何も突知らなさすぎる……」「そうですか……それなら無難なところでスイーツなどは如何ですか? 幸い、ここ六本木には有名スイーツ店がたくさんありますし」「姫宮さんはスイーツは好きなのかい?」「ええ。好きです。女性の殆どは好きだと思いますけど?」「そうか。なら姫宮さんにお願いしてもいいかな?」「はい、大丈夫です。出来れば今日渡された方がよろしいかと思いますけど? 今夜会長に会われる前に」「そうだな。時間指定は無かったが、早目のほうがいい。悪いけど買いに行って来てくれるかい?」「はい、すぐに行ってまいります。急ぎの書類はこちらになりますので目を通しておいて下さい。そしてこちらが昨日お話したパンフレットのサンプルになります」姫宮は書類とパンフレットを翔のデスクに置くと頭を下げた。「では、行ってまいります」姫宮はコートを羽織ると、オフィスを後にした。**** オフィスビルを出て、暫く歩きだしてから姫宮はスマホを手に取り、電話をかけると耳に押し当て通話を始めた。「もしもし……。困ったことになったわ。また問題を起こしてしまったのよ……ええ。……そう

    Last Updated : 2025-05-09
  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   エピソード 0 須藤朱莉の物語

     築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以

    Last Updated : 2025-02-24
  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   エピソード 0-1 鳴海翔の物語

    「おい、翔。書類選考が通った彼女達の履歴書だ。ここから最終面接をする人物を選ぶんだろう?」此処は日本でも10本の指に入る、東京港区にある大手企業『鳴海グループ総合商社』本社の社長室である。「ああ……。そうか、ありがとう琢磨。悪いな。嫌な仕事を頼んでしまって」前面大きなガラス張りの広々とした部屋に大きなデスク。そこに書類の山と格闘していた鳴海翔(26歳)が顔を上げた。「お前なあ…。本当に悪いと思っているならこんな真似よせよ。選ばれた女性が気の毒じゃないか」九条琢磨は溜息をつきながら鳴海翔に言った彼は翔の高校時代からの腐れ縁で、今は有能な秘書として必要な存在となっている。「仕方無いんだよ……。早く誰か結婚相手を見つけないと祖父が勝手にお見合い相手を連れて来るって言うんだからな。大体俺には愛する女性がいるのに……。」「まさに禁断の恋だもんな? お前と明日香ちゃんは。普通に考えれば絶対に許されない恋仲だ」琢磨はからかうような口ぶりで言う。「おい、琢磨! 誤解を招くような言い方をするなっ! 確かに俺達は兄妹の関係だが血の繋がりは一切無いんだからなっ!?」翔は机をバシンと叩きながら抗議する。「いや、分かってるって。そんな事くらい。だけど世間じゃ何と言うかな? いくら血の繋がりが無くたって、義理の兄妹が恋仲ですなんて知れたら、ゴシップ記者に追われて会社ごと足元を掬われるかもしれないぞ?」「ああ、そうだ。祖父も俺と明日香の関係に薄々気付いている。だから俺に見合いをするように迫ってきているんだ。考えても見ろよ。俺はまだ26だぞ? 結婚するには早すぎると思わないか?」「ふ~ん。だけど明日香ちゃんとは結婚したいくせに……」翔は苦虫を潰したような顔になる。「祖父も大分年だ……。それに長年癌も患っている。早くても後数年で引退するはずなんだ。その時が来たら誰にも文句は言わせない。俺は明日香と正式に結婚するよ」「そしてカモフラージュで結婚した女性を、あっさり捨てる気だろう?」琢磨は何処か憐憫を湛えた目でデスクの上に乗っている履歴書に目を落した。「おい、人聞きの悪い事を言う。言っておくが、結婚を決めた女性には事実をきちんと説明する。それに自分の人生を数年とは言え犠牲にして貰う訳だから、それなりに手当だって払うし、離婚する際はまとまった金額だって提示する。だか

    Last Updated : 2025-02-24

Latest chapter

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-10 微細な変化 2

    ——翌朝 翔は憂鬱な気分で社長室にいた。「おはようございます、翔さん。コーヒーをお持ちしました」秘書の姫宮がコーヒーを翔のデスクに置いた。「ああ、ありがとう……」翔は溜息をついた。「どうかされましたか?」「……いや、昨夜少し朱莉さんにきつく当たってしまって、反省しているんだよ」「朱莉様にですか?」「ああ。お宮参りの件で彼女を疑ってしまったんだ。ひょっとすると俺が最初に朱莉さんにお宮参りには1人で行くようにと言ったから、それに不満を持って会長に連絡を入れたんじゃないかって。馬鹿だよな。朱莉さんが会長の連絡先を知るはずは無いのに。それで今朝謝ろうとメッセージを打とうと思ったんだけど、何と書いたら良いか分からなくてね」「……」姫宮は何を思ってるのか、少しだけ眉を潜めながら話を聞いていたが……やがて口を開いた。「何かお詫びにプレゼントでも差し上げたらいかがでしょうか?」「プレゼント?」「はい、朱莉さんが好みそうなプレゼントです」「……」翔は考え込んでしまった。朱莉のプロフィールなど、殆ど把握していない。知っているのは学歴、勤務履歴、家族構成のみだった。「駄目だ……。俺は朱莉さんのことを何も突知らなさすぎる……」「そうですか……それなら無難なところでスイーツなどは如何ですか? 幸い、ここ六本木には有名スイーツ店がたくさんありますし」「姫宮さんはスイーツは好きなのかい?」「ええ。好きです。女性の殆どは好きだと思いますけど?」「そうか。なら姫宮さんにお願いしてもいいかな?」「はい、大丈夫です。出来れば今日渡された方がよろしいかと思いますけど? 今夜会長に会われる前に」「そうだな。時間指定は無かったが、早目のほうがいい。悪いけど買いに行って来てくれるかい?」「はい、すぐに行ってまいります。急ぎの書類はこちらになりますので目を通しておいて下さい。そしてこちらが昨日お話したパンフレットのサンプルになります」姫宮は書類とパンフレットを翔のデスクに置くと頭を下げた。「では、行ってまいります」姫宮はコートを羽織ると、オフィスを後にした。**** オフィスビルを出て、暫く歩きだしてから姫宮はスマホを手に取り、電話をかけると耳に押し当て通話を始めた。「もしもし……。困ったことになったわ。また問題を起こしてしまったのよ……ええ。……そう

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-9 微細な変化 1

    「くそっ!」 翔は玄関に入ると乱暴にドアを閉めた。靴を脱いで部屋にあがると明日香のメモを見直す。翔は無言でそのメモを握りつぶすと、自室へと向かった。翔の自室には両サイドに大きな引き出しが付いた書斎用デスクが置かれている。そのデスクの間にしゃがむと引き出しを開けた。その引き出しには実はからくりがあり、さらに手のひらサイズの隠し引き出し機能が備わっているのだ。翔はそれを開けた。中には鍵が入っている。この鍵は書斎に置かれている本棚の引き出しの鍵である。引き出しの鍵を開けると、中にはひもでくくられた手紙と写真てが裏表反対に入れられていた。「……」翔は震える手でフレームを手に取り、表に返した。その写真には2人の人物が映っており、その写真を食い入るように暫く眺めていた。「あれから10年か……」翔は写真を見ながらポツリと呟いた。(何故だ……? もうずっと気にも留めず忘れかけていたのに、何故今頃になって思い出すんだ……? やはり明日香が10年間の記憶を一時的に失った時に、お前のことが頭をよぎったのかもしれないな……)こうして写真を見ていると、2人だけで写真を撮った10年前の、あの日の会話が思い出される。****『翔は優秀だけど、もう少し他者を労わってあげた方がいいよ。そうしないと、いずれ皆が去って行ってしまうかもしれないよ? 僕は翔が心配なんだ……』『何馬鹿なことを言ってるんだ。少しでも俺が相手の人間より立場が上なら、そんなことは絶対におこるはずないだろう? 俺は今も、この先も自分の考えを改めるつもりはないからな。大体お前にとやかく言われる筋合いは無い』****「そう答えた時、あいつはどこか悲し気な瞳で俺を見ていたな……」ポツリと呟く翔。あの時は何て馬鹿なことを言うのだと鼻で笑ってしまったが……。(お前の言葉の通りになったよ……。琢磨は俺と縁を切ってしまったし、明日香も俺の元をじきに去ろうとしているかもしれない……)思えば親友であった琢磨を自分の専属秘書にしたのも、その考えがあったからかもしれない。その時、翔は先ほどの朱莉の涙を浮かべた姿を思い出した。途端に罪悪感に襲われる。(朱莉さんにかなり乱暴に言い過ぎてしまった……)翔は祖父や明日香が絡むとどうしても冷静でいられなくなるのは自分でも良く分かっていた。それは自分の今のポジションを失い

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-8 朱莉への疑惑 2

     朱莉は英会話の勉強をしていた。——ピンポーンその時、玄関のインターホンが鳴り響いた。「え? ひょっとして翔先輩?」朱莉は玄関へ行き、ドアアイを覗きこむと思っていた通り、翔の姿があった。だが……何か様子がおかしい。鍵を開けてドアを開けると、そこには険しい顔つきの翔が何も言わずに靴を脱ぐと上がり込んできた。「こんばんは、翔さん」朱莉は挨拶をしたが、翔はチラリと朱莉を一瞥しただけで前を素通りし、リビングのソファに座ると低い声で朱莉を呼んだ。「朱莉さん……来てくれ。大事な話があるんだ」「は、はい……?」朱莉は言われた通り翔の向かいのソファに座ると、いきなり翔は切り出してきた。「朱莉さん……やり方が汚いと思わないのか?」「え? 何のことですか?」朱莉は訳が分からず首を傾げた。「とぼけるのはやめてくれないか? そんなに俺が蓮のお宮参りを1人で行くように言ったのが気に入らなかったのか?」翔は苛立ちを隠す素振りも無く朱莉を睨み付けるように言う。しかし、一方の朱莉には今の状況が分からなかった。「あ、あの……私には何のことかさっぱり分からないのですけど……?」身を縮こませながら尋ねる朱莉は激しく動揺していた。(分からない……何故翔先輩はこれ程迄に私に対して怒っているの……?)すると翔はますます機嫌が悪くなっていく。「何だ? 君が蒔いた種なのに説明が必要なのか? ……全く嫌みな態度だな。朱莉さん、君が祖父にお宮参りのことで連絡を入れたんだろう? それで祖父が中国から明日帰国することになったんだぞ? どうするんだ? 一時の感情に任せて祖父を日本へ呼び出せば不利な立場になるのは朱莉さん、君の方なんだぞ? そのあたりのことは理解出来ているんだろうね? 祖父から色々質問をされて、一つでもきちんと答えられるのか?」「え? 会長が……日本へ戻って来るのですか?」朱莉は驚いて尋ねた。「朱莉さん。君は随分演技がうまいんだな? 自分から祖父に連絡を入れたくせに……」翔は溜息をついた。「そ、そんな! 私は何も知りません。会長が日本に来るなんて今初めて聞きました。それに……第一私は会長の連絡先を知らないんですよ?」朱莉は必死で訴えた。「君の話を信じろと言うのか?」「そうです、お願いですから信じて下さい」「……悪いが、今回の件は流石に信用するのは無理

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-7 朱莉への疑惑 1

    「どうかしたんですか? 明日香さん」「え、ええ……。今までのこと、ちゃんと謝りたかったの。朱莉さんには酷いことばかりしてきたから」「でも明日香さんは私に親切にしてくれましたよ? 沖縄から東京に来るとき、わざわざビジネスクラスの航空券を手配してくれたじゃないですか」「あ、あれは……」明日香は顔を赤くすると、一度そこで言葉を切って俯き、再び顔を上げた。「お宮参りのことだけど、まさか翔が朱莉さんに一人で行って来いなんて酷いことを言うとは思わなかったの。翔の代わりに謝らせて。本当にごめんなさい」まさか明日香が謝ってくるとは思わず、朱莉は驚いた。「明日香さん、どうか顔を上げて下さい。それよりお聞きしたいことがあるのですけど……ひょっとして何処かへ出掛けるんですか?」「そうなの。実は今度『星の降る駅』っていう小説のイラストを描くことになったんだけど、星がきれいに見える駅がどこかにないか、SNSで質問していたのよ。そしたら昨日突然書き込みが上がったのよ。『野辺山駅』がとても星空が綺麗に見えるんですって。だから今日から早速行ってみようと思って」「すごいですね……それっていわゆる取材ってものですよね。明日香さん、恰好いいですね。憧れます」朱莉は尊敬のまなざしで明日香を見た。「そ、そう? あ……ありがとう」明日香は頬を染めた。「あの……でもその話、翔さんはご存じなんですか?」「翔には話してないわ。言えば反対されそうだし。その代り書置きだけはしておいたけど。スマホに連絡入れるつもりもないし。それじゃ……私そろそろ行くわ」そして明日香は立ち上がった。玄関まで朱莉は蓮を抱いたまま見送りに出た。「明日香さん。お気をつけて行って来てください」「ええ。それじゃ朱莉さん。行ってくるわ。お土産……何か買ってくるわね」再び明日香は頬を染めた。「はい。ありがとうございます」そして明日香は玄関まで見送られながら、朱莉の自宅を後にした——****——その夜自宅へ帰って来た翔は驚いた。いつもなら電気がついて明るい部屋が今夜は真っ暗である。「明日香? 出かけてるのか?」ネクタイを緩めながら部屋の電気をつけると、リビングのテーブルに残されている手書きのメモを見つけた。「なんだ? これは……書置き?」拾い上げ、目を見開いた。『イラストの取材で良い場所の情報を

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-6 翔と姫宮 2

    ビデオ通話を切った後、翔は椅子の背もたれに寄りかかるとフウッと息を吐いた。その様子を離れたデスクで見守っていた姫宮が声をかけてきた。「会長からお電話だったんですね」「ああ、そうなんだ。だけど……あまりにも偶然と言うか……」「会長は日本の伝統的行事を重んじる方ですよ。私が秘書をしていた時から翔さんにお子さんが生まれたら伝統行事に参加したいと常日頃から仰っておられましたから」「……そうなんだが……。朱莉さんを明日鳴海家に連れて来るように言われてしまった。……色々とまずいな」「まずいと仰いますと?」「朱莉さんに妊娠中のこととか、出産のことについて根掘り葉掘り聞かれても朱莉さんは何一つ答えられない。きっと会長に疑われてしまう」「……会長に疑われるよりも前に朱莉様が心配にはなりませんか?」姫宮の言葉に翔は顔を上げた。「え?」姫宮は頭を下げた。「差し出がましい事を申し上げますが、会長と会われて一番困ることになるのは朱莉様だと思います。初めて鳴海家へ行くわけですし。恐らく翔さんとの結婚生活について会長が尋ねられるのは朱莉様の方だと思います。出産時の苦労話とか、それらを未経験の朱莉様に答えられるとお思いでしょうか?」「確かに……。どうしよう、必ず連れて行くと答えてしまったが、朱莉さんには急に具合が悪くなったとか理由を付けて、蓮だけ連れて行けないだろうか? 恐らく会長のお目当ては蓮だと思うし」「……僭越ながらそれでは根本的解決にはならないと思いますが? 蓮君はゆくゆくはこの鳴海グループの跡継ぎとなられるお子さんです。恐らく今後も会長は蓮君の行事の祝い事には予定を開けて参加されることになると思います。その度に朱莉さんを会長から遠ざける等、難しいと思います」「困ったな……八方塞がりだ……」片手で頭を支えながらため息をつく翔。「もしよろしければ私も明日、鳴海家へ伺ってもよろしいでしょうか?」「え? 姫宮さんが……?」「はい。会長の質問で朱莉さんが困るような場面があった場合、私が会長の気を引きますので。私は会長の秘書をしておりましたので、お2人の力になれると思います」そして姫宮はにっこりと微笑んだ——****――14時 蓮の沐浴を終えて、ミルクを飲ませている所に突然インターホンが鳴った。「え? 誰かな……?」朱莉は哺乳瓶をテーブルに置くと、

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-5 翔と姫宮 1

     翔は社長室のデスクでため息をついていた。そこへ秘書である姫宮がノックをして入室して来た。「おはようございます、翔さん。……どうしたのですか? 朝からため息をつかれて」「いや……少し蓮のことで……あ、すまなかった。プライベートなことなのに」「いえ、蓮君がどうされたのですか?」「実は……朱莉さんから週末、蓮のお宮参りに行かないか誘われたんだ」「まあ、それは素晴らしいですね。お祝い事の行事は大事ですから」「だから、明日香を誘ったんだ。2人でお宮参りに行かないかって」「え?」「だが……明日香は行かないと断ったんだ……」翔は頭を押さえた。姫宮は黙って聞いている。「だから朱莉さんに言ったんだ。悪いけど1人でお宮参りに行ってくれって。写真は頼んだんだが……。明日香の機嫌がどうにも良くなってくれなくて……」そして再び翔は溜息をついた。「そうでしたか……」姫宮は静かに答えた。すると、突然翔が立ち上った。「翔さん? どちらへ行かれるのですか?」「あ……いや、まだ始業時間まで時間があるからコーヒーを買ってくる」「コーヒーならコーヒーサーバーがありますよ? おいれしましょうか?」「いや。いいんだ。少し外の空気も吸ってきたいから」翔は上着をひっかけた。「はい、分かりました。行ってらっしゃいませ」姫宮は頭下げた。やがてドアが閉じられると姫宮はスマホを取り出し、メッセージを打ちこみ始めた……。**** 昼休憩の後。突然、翔のPCから呼び出し音が鳴った。「え……? ビデオ通話……会長だ!」翔は慌てながら応答した。すると画面上に会長である鳴海猛が映し出された。『やあ、久しぶりだな。翔』「はい、お久しぶりです。会長……突然どうされたのですか?」『いや、どうされたも無いだろう? お前がいつまでたっても曾孫の蓮の画像を送ってくれないからお前に電話を入れたんじゃないか。それに蓮は生れて一カ月が経過しただろう。お宮参りの行事があるんじゃないのか?』翔はドキリとした。まさか猛から蓮のお宮参りの話が出てくるとは思ってもいなかった。「そ、そうですね。そのことは考えてはいたのですが……」翔が言い淀む。『それでな、翔。今、私は上海支社にいるんだが、明日の朝一番の便で帰国することにした。お前の子供に会わせてくれ。それで朱莉さんを連れて一緒に土曜日にお

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-4 航の思い 2

     電話を切った航は項垂れてスマホを強く握りしめた。「あ……朱莉……。ごめん……」その上にポタポタと涙がこぼれて落ちてゆく。今までこんなに誰かを好きになったことは無かった。過去に何回か交際したことはあったが、誰とも長続きはしなかった。なのに朱莉にだけは強く惹かれた。背負っているものが重過ぎて、年上なのに何所か守ってやらなければと思わせる儚さ。朱莉本人は全く自覚していないようだが、美しい容姿……優しい心……そのどれもが航の心を鷲掴みにしてしまっていたのだ。出来ることなら自分の思いを告げたかったが、朱莉はあの鳴海翔の人妻だ。例えそれが嘘にまみれた偽装結婚でも、書類上はれっきとした婚姻関係を結んでいる。不倫の代償は……大きい。おまけに朱莉は契約書に決して浮気をしてはいけないとサインまでさせられているのだ。朱莉にその気が無くても自分が周りをうろついていた為に第三者に付け込まれてしまった。「俺も琢磨も……朱莉のことを遠くから見守っていれば……別れを告げずに済んだのか……?」航は自問自答した。「朱莉……お前が俺のこと、弟としか見ていなくても……お前のことが大好きだったよ……」航はいつまでも泣き続けるのだった——**** 電話が切れた後も、朱莉は暫くの間呆然としていた。(航君……さよならって言ってたけど……もう二度と連絡を取り合わないってことなの? それに九条さんがオハイオ州に行くなんて……)何もかも初めて聞かされたことなので、とてもではないが朱莉はすぐに受け入れられずにいた。「フエエエエ……」その時、蓮がむずかった。その声に朱莉は我に返り、慌ててベビーベッドへ向かうと蓮を抱き上げた。「よしよし……レンちゃん。どうしたの?」蓮を胸に抱きしめ、あやしながらだんだん朱莉は冷静さを取り戻してきた。(航君、彼女が出来たんだ。航君はいい子だから彼女が出来ても当然だよね。少し寂しいけど、応援してあげなくちゃ。その為には私は邪魔しちゃいけないものね。それに九条さんがオハイオ州に行くなんて……。最後にお礼を言いたかったけど航君に連絡をしないように言われたから諦めなくちゃ)朱莉にあやされているうちに、いつの間にか蓮は眠りに就いていた。その姿を見ながら朱莉は思った。(そうよ、私にはまだレンちゃんがいる。それに、もともと私は1人きりだったんだから。それが

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-3 航の思い 1

     朱莉から電話がかかってくる少し前—— 缶ビールを片手に、航は自分のスマホを強く握りしめていた。父の弘樹に諭されてから、今日こそ、明日こそ朱莉に別れを告げなければと思いつつ、数日が過ぎてしまっていた。そんな航の元気の無い姿を弘樹は気づいていたが、特に声をかけることはしなかった。琢磨とは既に打ち合わせ済みだった。もし仮にどちらかのスマホに朱莉から連絡が入ってきた場合は、自分たちに二度と連絡を入れないように朱莉に告げようと。琢磨は現在オハイオ州に移り住む為の準備で奔走している。朱莉に別れを告げるなら自分の役目だと航は決め、そのことを既に琢磨には告げてあった。それなのに航は朱莉と別れを告げるのが怖かった。だから先延ばしにしていたのに……。その電話は突然鳴ったのだ。握りしめていたスマホが突然鳴り響き、航は驚いた。そして着信相手を見てさらに衝撃を受けた。「あ、朱莉……!」まさかこんなに早く朱莉から電話がかかって来るとは思ってもいなかった。(朱莉……この電話に出たら俺はお前に別れを告げなくちゃならないんだ……! 頼むから諦めて切ってくれ……!)航は唇をかみしめてスマホが鳴りやむのを待っていたが、根負けして10コール目でとうとう電話に出てしまった。「もしもし……」自分でも驚くほど弱々しい声が口を突いて出てきた。『こんばんは。航君。……どうしたの? 何だか随分元気が無さそうだけど?』受話器越しから自分の身を案ずる朱莉の声が聞こえてくる。思わず涙ぐみそうになるのを航は必死でこらえて、わざとぶっきらぼうに答えた。「いや、別に。気のせいだろう?」『でも……』「いいから、何の用なんだよ」応答しながら、航は激しく後悔していた。(俺は……なんて酷い対応をしているんだ……!)朱莉の電話の内容は蓮のお宮参りについて来てほしいとのことだった。その話を聞きながら、航は翔に対して怒りをたぎらせていた。(あいつめ……! また朱莉一人に自分の子供の行事を押し付けるなんて! 俺がお前の立場だったら、絶対にそんなことはさせないのに……! だけど……俺はもうこれ以上お前の傍にいちゃいけなんだよ!)「無理だな」朱莉の話を聞き終えると、血を吐く様な思いで航は返事をした。『え?』朱莉の戸惑った声が何所か悲しみを帯びたように航には聞こえた。朱莉に何か問い詰められるのが怖

  • 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした   3-2 生後一月目の出来事 2

     明日香は朱莉に親切にして貰って以来、少しずつ朱莉に対して思う所が出てきていた。沖縄では翔の浮気疑惑が浮上した時、身重の明日香に変わって朱莉がわざわざ東京まで足を運んでくれたし、今だって蓮の子育てを一生懸命やってくれている。そのことは1週間ごとに報告してくる朱莉のメールで良く分かっている。まだ素直になれない明日香ではあったが、いずれはきちんと心からの謝罪とお礼を述べたいと思っていたのだ。それなのに、翔の態度は相変わらずだ。朱莉に対する扱いは、かつて自分が鳴海家で受けてきた扱いを彷彿とさせ、明日香にとって非常に嫌な気分にさせる。「明日香……それじゃお宮参りには……?」「行かない、と言うか行けないわ。来月『独身イラストレーターの座談会』というイベントが開催されるのよ。私はそこに呼ばれてるの。『独身』の私が蓮を連れてお宮参りになんて行けるはずないでしょう?そんなに行きたいなら、朱莉さんと2人で行けばいいでしょう!?」明日香はそこまで言って気が付いた。以前の明日香なら翔と朱莉の中を激しく嫉妬していたが、朱莉に対する思いの変化に、翔の冷たい態度。さらに一時的に10年分の記憶を失って琢磨を好きだった頃の自分の記憶を取り戻し、少しずつ翔に対する依存度が減ってきていることを今更ながら自覚したのだ。一方の翔は明日香に思いがけない言葉を投げつけられ、酷く傷ついていた。そして深いため息をついた。「……分かった。お宮参りの件は……断るよ」「え?」明日香は一瞬顔を上げたが……そっぽを向いた。「勝手にしたら?」そしてグラスをテーブルに置くと明日香は仕事部屋へと戻って行った。そんな明日香を見届けながら翔は朱莉に電話を掛けた。呼び出し音の後、朱莉が電話口に出た。『はい、もしもし』「こんばんは。朱莉さん」『はい、こんばんは』「蓮は今どうしてる?」『フフ……今はお目目パッチリ開いてベビーベッドに取り付けたメリーを見つめています。この頃ってまだ殆ど目は見えていない様なんですけど、うっすらと見えているんでしょうね?』電話口からは穏やかな朱莉の声が聞こえてくる。「そうか……。それで、お宮参りの件なんだけどね……悪いけど行けないんだ。だから朱莉さん1人で行ってきてくれるかい?」『え……? 1人で……ですか?』「何だ? 無理かい?」『い、いえ! そんなことはありませ

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status